出会い・感動インタビュー
プロバスケットボールの試合を通じて、 各地域の人たちに元気を与えていくこと。
それが、bjリーグの仕事です。-中野 秀光さん
今回のインタビューのお客さまは、(株)日本プロバスケットボールリーグ代表取締役社長の中野秀光さん。日本プロバスケットボールリーグは日本のプロフェッショナルバスケットボールリーグ(通称:bjリーグ)を主催している組織です。プロフェッショナル&エンターテインメント性の高いプレーで、地域社会のスポーツ文化の向上と国際化に貢献しています。浜松町にある本社におうかがいして、リーグ運営の役割や誕生の背景から今後の夢や抱負に至るまで、様々な話をお聞きしました。
中野 秀光さん/株式会社日本プロバスケットボールリーグ 代表取締役社長
1958年、新潟県生まれ。1977年、新潟市立白山高等学校体育学科卒業。1996年、(社)小千谷青年会議所理事長就任。1996年、1997年と2年連続でNBAのOBを実際に招きゲームを開催。2002年、(株)新潟スポーツプロモーション(新潟アルビレックス)専務取締役就任。2004年、(株)新潟スポーツプロモーション(新潟アルビレックス)代表取締役就任。同年11月、日本プロバスケットボール(bjリーグ)理事就任。2007年9月、(株)日本プロバスケットボールリーグ代表取締役社長就任。
bjリーグの役割―まず、bjリーグとはどのような団体なのか、ご説明をお願いいたします。
bjリーグとは株式会社プロバスケットボールが主催する日本のプロフェショナルバスケットボールリーグのことです。2005年11月の開幕以来、「プロフェッショナル、スポーツ・エンターテインメント、グローカル&コミュニティ」という理念を掲げています。その中で私たちは、次の三つの役割を担っていると考えています。
一つめは、バスケットオペレーションです。これは簡単に言えば、日本のバスケットボールの品質を高めることです。現役のバスケッ トボールプレーヤーはもちろん、彼らに憧れて選手を目指す子供たちも含めたトータルな品質の向上を目指しています。それにより、オリンピックや世界選手権で活躍できる若者たちを育てていこうと考えています。
二つめは、ビジネスオペレーションです。現在、bjリーグに参戦しているチームは21チームあります(2011-12シーズン)。チームの名称は、地元の 地域名とニックネームで構成されています。各チームは地元密着型のチーム経営を大切にしながら、より一層の支持基盤の安定・拡大を実現。リーグ全体をビジ ネスとして運営します。三つめは、このビジネスオペレーションを継続的に行っていくことにより、地域社会での雇用を促進し、地域の活性化につなげていくという社会貢献オペレーションです。この社会貢献オペレーションとビジネスオペレーションは、互いが密接にリンクしています。
―社会貢献オペレーションについて、もう少し具体的にお話しください。
単に社会貢献を行っていくのであれば、ボランティアとして活動していく方法もあります。もちろんボランティア活動は大切なことであり、実際に私たちも行っていますが、私たちが目指しているものの一番の根底には「若者を元気にする」という考えがあります。
そ の実現のためには、どんなことが必要なのか。それは地域のお年寄りたちが元気なことが一番であると結論づけました。お年寄りが元気だと、中年の人たちも 日々充実して過ごしていけるはずです。中年の人がイキイキと頑張っている姿を見て、今度は若者たちも夢中になるものをしっかりと持てるようになる。最終的には、その若者たちの姿を見て子供たちが憧れを抱く。地域には、このプラスの連鎖が絶対に必要だと考えています。
そのためには、若者が雇用される場=仕事がなくては話になりません。たとえばスポーツを行っていた若者が、体育大学などを卒業しても体育の教員にはなれ ず、それまで学んできたこととはまったく関係のない仕事に就く場合が多いことも事実です。できれば彼らが学んだ技術を、社会貢献として活かせる場をつくってあげたいと常々思っていました。
私たちのこうした思いは、後でご説明する「コート事業コンソーシアム」として、地域スポーツコミュニティの構築へとつながっていきます。いずれにしても若者たちの雇用を生み出すためにも、bjリーグでは各チームの黒字化の実現を基本にしています。
bjリーグ誕生―日本のバスケットボールリーグには、bjリーグとJBLがありますが、その違いはなんでしょうか?
実は新潟アルビレックスも、かつては日本バスケットボール協会に所属し、バスケットボール日本リーグ機構(以下JBL)に参戦していました。ご存知のように、JBLに参戦するチームは基本的に企業チームですので、企業の業績にその存続が左右されてしまいます。最悪の場合、たとえチャンピオンチームであっても廃部になってしまうこともあります。そうなると選手たちは、次の所属先となるチームを探さなくてはなりません。
bjリーグの誕生以前に、たくさんのチームが廃部になりました。その中の一つ、熊谷組のチームは選手・監督ともに大和証券に譲渡されましたが、その3年後 には大和証券のバスケットボール部も休部となってしまうのです。そのときのマネージャーが、サッカーのアルビレックス新潟の池田弘社長(当時)に救済を求めました。Jリーグで大成功を収めた新潟ならば、なんとかこの窮地を救ってくれると信じて。ここが、すべての始まりです。
バスケットボールを選んだ若者たちを、路頭に迷わせてはいけない。こうした思いから大和証券バスケットボール部に所属していた選手を受け入れ、2000年、サッカーと同じアルビレックスの愛称を使ったバスケットボールチームが誕生しました。
―JBLから脱退して、新たにbjリーグを立ち上げた経緯についてお話ください
新潟アルビレックスは、当初から県民密着型のバスケットボールクラブを目指しました。一つの企業のチームではなかったことから、県民が皆、このチームを誇りとして受け入れ、愛し育ててくれたのです。「自分たちの町に、バスケットボールのチームができた」ことに大きな喜びを感じる多くの県民に支えられて、選手たちはプレーしました。
その頃、日本バスケットボール協会もプロ化への道を探っていました。協会側は池田社長に「3年待ってください」と言っていたのですが、2003年に「申し訳ないが、JBLはプロ化することはできない」との回答が。理由は「プロ化されたら自分のチームは参戦しない、という企業がものすごく多かったから」とい うものでした。企業の福利厚生の一環としてつくられたスポーツチームとしては、致し方ないこともまた事実なのです。
プロ化の道が絶たれたのであれば、新潟アルビレックスも廃部となってしまいます。しかし、多くの県民から「チームを潰さないで」という声がどんどん高まっていきました。そうしたファンたちの声に応えるべく、2004年、新潟アルビレックスはJBLおよび協会からの脱退を発表し、翌年のbjリーグ開幕へ向かっていくことになります。
協会側はそんな新しいリーグが続くとは思っていなかったのではないでしょうか。ところが毎年着実に2チームずつ増えていき、現在、bjリーグは21チームが参戦する日本のプロフェッショナル・バスケットボールリーグに成長しました。