出会い・感動インタビュー
「体脂肪計タニタの“社員食堂”」驚きの好循環スパイラル!-猪野 正浩さん
今回のインタビューのお客さまは、「社員食堂」や「レシピ本」などの驚異的なヒットで知られる株式会社タニタで、広報活動の陣頭指揮を取っている猪野正浩さんです。長年、新聞社で培ってこられた広報コミュニケーション力やノウハウを、タニタの企業広報・各商品のPR活動に投入されています。技術力に定評のある企業の事業概略や、広報室長として取り組まれることになった経緯、さらには具体的な広報戦略やPR活動の実績に至るまで、興味深いお話をお聞きしました。
猪野 正浩さん/株式会社タニタ 広報室室長
1961年、宮城県生まれ。大学卒業後に業界紙勤務を経て、1989年に株式会社日刊工業新聞社に入社。編集局科学技術部、第二産業部、流通サービス部、第一産業部記者、北東京支局長、第一産業部副部長を歴任。2006年に株式会社タニタに入社し、広報室室長に就任。総合的なメディアプランニングを含めた広報戦略の企画立案はもとより、プロデュース業務などにも携わる。
商品開発のDNAを受け継ぐ会社―タニタさんは、今年で設立68年目を迎えるということですが、まずは会社の歩みと事業概要からお話しいただけますか。
会社設立からは68年目ですが創業はさらに古く、1923年(大正12年)に「谷田賀良倶商店」として誕生しました。金属の小間物扱いからスタートして、貴金属宝飾品や時計のケース、シガレット・ケースなどの製造販売を行っていたということです。会社組織になったのが1944年(昭和19年)で、株式会社谷田無線電機製作所として設立。当時は通信機の部品を作っていました。終戦後の1946年(昭和21年)、たった一つシガレット・ケースの金型だけが残っていて、そこから会社の再建が始まりました。真鍮製シガレット・ケースを製造する一方で、いわゆるOEMによる受託生産も手がけるようになっていきます。ターンオーバー式のトースターを日本で初めて開発し量産化、大手電機メーカーに納入していました。あとは、電気ポットやシガレット・ケースから派生した電子ライターも、タニタが開発した日本初の商品です。中でもエポック的なものが、1959年(昭和34年)に製造を開始したヘルスメーター(体重計)です。ヘルスメーターというのは実は和製英語で、英語ではバスルームスケールといいます。当時、社長だった谷田五十士がアメリカ視察に出かけたとき、各家庭の脱衣所に体重計が置いてあったのです。日本はちょうど、高度成長期へ向かう時期。多くの団地ができ、それまでの銭湯から自宅の風呂へと移り変わっていく時代。当社のヘルスメーターは、まさに時代を先取りした商品だったのです。
―長年、新聞社にいらした猪野さんがタニタに入社され、広報業務に取り組まれることになった経緯を教えてください。
新聞社からメーカーに移ったわけですから、とうぜん畑はまったく違います。しかし、私自身は長年にわたり、取材活動を通じて多くの企業の広報の方たちとお 会いし、広報の仕組みについて、あるいは広報の在るべき姿などについて議論を重ねてきました。そうした中で、縁がありタニタに入社し、広報室の室長に就任 することとなりました。私の知識や理論、スキルやノウハウを実践するべく、入社以来、広報業務に全力で取り組んでいます。最初にお話ししたとおり、タニタは優れた商品開発のDNAを持った企業です。しかし、正直それらをPRすることに関しては得意ではなかった。もちろん時期的にOEM中心だったこともありますが、数多くの日本初や世界初という冠を持っているにも関わらず、それらを持続的にタニタブランドとして上手に構築することができていなかったのです。私が入社したときも、誤解を恐れずに言わせてもらえれば、ほとんどの社員が広報に対する理解をもっていませんでした。そこで、まず私は啓蒙が必要であると考えました。記者と同じように、社内取材=各事業部門へ行き会話をしてみることにしたのです。話を重ねていく中で、一人ひとりに広報の必要性や重要性をしっかりと伝えていく。キャッチボールをしながら、社内コミュニケーションを密にして、広報への理解と協力を求めていきました。
―まずは、社内に対して広報への理解を図ったということですね。
実際に、広報業務に取り掛かって気づいた点はどのようなことですか?
タニタは、世間一般でいう大企業ではありません。しかし体脂肪計などのヒット以降、小さい会社にも関わらず大企業病を患っていました。基本的に「攻めの姿 勢」ではなく「待ちの姿勢」。新商品を出しても、メディアから取材依頼が来るのを待っている状態。こちらからは何も仕掛けていかない。これではいけないと 思い、まず私はメディアリストの見直しから始めました。1000件近いリストを調べてみて驚きました。メディア側の担当者の名前は挙がっているものの、連絡を取ってみると相手はすでに違う部署へ移っていたり、 辞めていたり、ほとんど使いものにならなかったのです。そこで、私はリストのメンテナンスに取りかかりました。従来の業界紙はもちろん、商工会議所の記者クラブへの加盟、さらには産業紙(日経新聞、日刊工業新聞、フジサンケイビジネスアイ)にもアプローチしました。やはり、顔の見える広報は重要なポイントですから。そんな中で、2007年(平成19年)に行った中国でのプレスツアーはターニングポイントとなりました。これは中国で工業デザインを教えている先生方の研修を支援する活動が10周年を迎えるということで、式典だけでなく、この取り組みをより広く知っていただくためのミッションが組まれましたそこで企画したのが日本からメディアを呼ぶプレスツアーと現地マスコミとの合同記者発表会です。もちろん、取材ビザの取得なども含めて苦労もありましたが、社内外で高い評価を得ることができ、広報としてやるべき任務を果たすことができました。