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出会い・感動インタビュー

地球に生きる”みんなの幸せ”を 実現するために「非対立」という 考え方を、
より多く人に伝えたい。-高木 善之さん

今回のインタビューのお客さまは、NPO法人ネットワーク『地球村』の代表・高木善之さんです。『地球村』とは、国連などが提唱する飢餓、貧困、戦争、環境破壊などのない、「永続可能な社会」(幸せな社会)のこと。ネットワーク『地球村』は抗議、要求、戦い、主義主張、論争などの「対立」をせず、事実を伝える、提案する、実践する、協力するなど、「非対立」を基本にした問題解決を実践。その基本姿勢が生まれた背景から現在の活動まで、様々なお話をお聞きしました。

高木 善之さん/NPO法人ネットワーク「地球村」 代表

1947年、大阪府生まれ。大阪大学物性物理学科卒業後、松下電器産業株式会社(現:パナソニック株式会社)に入社。在職中に、フロン全廃をはじめとする環境政策を推進。合唱団を創立し、指揮者として活躍し全日本合唱コンクールで金賞を受賞。1991年、ネットワーク『地球村』を設立。リオ地球サミット、欧州環境会議、沖縄サミットなどに出席し、「地球市民連合」を提唱するなど活動を開始。人道支援、環境問題、平和問題から生き方まで、全国各地で講演活動も精力的に行う。『幸せな生き方』、『ありがとう』、『選択可能な未来』、『非対立の生きかた』など著書は多数。

高木 善之さん

 

瀕死の交通事故が原点。―ネットワーク「地球村」の設立は1991年。

今から20年以上前になりますが、その活動概要と、これまでの経緯についてお聞かせください。その前に、まず私自身の話をしなければなりません。大学を卒業後、私は松下電器、今のパナソニックに入社しました。半導体研究者としての仕事も、私生活も 順風満帆。加えて、私は長く音楽をやっていたので社内で合唱団を創立し、演奏会やコンクールなどで活動、全国大会でも優秀な成績を収めていました。マイホームも手に入れ、幸せな生活をおくっていました。
そんな幸福な日々が、一瞬にして吹き飛んだのです。1981年4月27日、オートバイに乗っていた私は交通事故に遭い、意識不明の重体で病院に運び込まれました。頚骨と骨盤骨折、手首は粉砕骨折という瀕死の状態で、病院の医師からも「これは助からないだろう」と言われました。しかし懸命な治療により、なんとか命だけは助かることができました。一命はとりとめたものの、本当の悪夢はそこから始まったのです。ベッドから起き上がることも、体を動かすこともできません。大好きな音楽、私はピアノと指 揮と声楽をやっていたのですが、そのすべてをあきらめるどころか、社会復帰すら難しいと宣告されてしまったのです。目の前は真っ暗、自分の将来の夢や希望、可能性のすべてが閉ざされてしまいました。

―仕事でも私生活でも順調な時期に、まさかの交通事故に遭遇。それが高木さんのスタート地点とのことですが、
その理由を教えてください。

初めは「治りたい」というよりも、とにかく「死んでしまいたい」と思っていました。このまま体に重度障害のある状態で生きていると、とうぜん家族に迷惑が かかります。30代の父親が寝たきりとなると、現実問題としてこれは非常に厳しい。むしろ、あの事故で死んだほうが、家族にとっては負担が少ないと考えていました。この悲惨な状況が私の原点なのです。病院のベッドの上で寝たきりなので、時間は限りなくあります。そこで私は、様々なことを一生懸命考えました。そして「人は何のために生きているのか」とい う根源的なところまで到達し、ようやく気づいたことがあったのです。今まで自分は、コンクールで1位を獲りたいとか、会社で出世したいとか、家族を幸せにしたいとか、極めて個人的なことだけを考えて生きていたのです。
しかし、コンクールで勝てば誰かが負け、出世すれば誰かが落ちるわけです。一人が豊かになると、他の人たちが豊かでなくなる。まるでシーソーのようなものです。私は「これはおかしい」と気づきました。幸せを求めているつもりで、実は「幸せのようなもの」を求めていたのです。
では、真の幸せとは何か。私は半年間考え続け、一つの結論に辿り着いたのです。それは「みんなが幸せになること」です。みんなが幸せでないと、個人の幸せはあり得ない。しかし、それまでの私は、ほとんどの人と同じように自分だけの幸せを求めていたのだ。自分だけの幸せを求めていたのでは、結局は誰も幸せにはなれないのです。

みんなの幸せの実現に向けて。―事故、入院を経て、高木さんの人生観は一変されたということですね。

高木 善之さん

その後の大きな気づきや決意は、どのようなものがあったのでしょうか。「みんなの幸せこそが、本当の幸せ」で、「みんなの幸せこそが、自分の幸せ」。この考えに辿り着いたとき私は「その実現のために、絶対に社会復帰するん だ!」と心の底から思えるようになりました。それはこれまでのように出世やコンクールに勝つためではなく、本当にみんなを喜ばすために。そのためにも「何が何でも体を治すぞ!」と強烈に心に念じました。
大学病院でも絶対に治らないといわれていた私の体が、不思議なことにこの決意によって急速に治癒していったのです。壊死していた骨に血が通い始め、動かなかった手の指がわずかながら動き始めました。一生半身不随で車椅子の生活といわれていた体が、元の健康な状態に向かって回復し始め、事故から1年後には、歩行器と杖をついて社会復帰を果たすことができました。
「職場復帰もでき、ピアノも弾けるようになり、指揮者としてカムバックできた。しかし、これは、ただ“運がよかった”で済ませるものではない。これは、大きな力によって動かされたのだ。これには大きな意味と使命があるのだ」と実感したのです。だから「みんなの幸せ」のために、自分のすべてをかけて最大限のことをしようと決意したのです。私にとって、必然的なものだったのです。

―みなさんの幸せの実現に向けて、自分のすべてをかけると決意された後、

まず、高木さんはどのようなことから取り組まれたのでしょうか?

私は足に歩行用の補助器具を付けて、まず指揮者として復帰しました。以前の私は合唱団のメンバーに向かって「一人ひとりの努力が足りない。もっともっと努力をしろ。君は音程が悪い。君はリズムが悪い」などと、悪い点を指摘していました。それが指揮者の役割だと思い込んでいました。当時は全国大会で2位まで登りつめており、「次は絶対に1位を!」と意気込んでいたのに一進一退で、じりじりしていたのでした。
そんな最中での事故、そして1年間の入院生活。ベッドの上で私は「今までのようなやり方で練習を重ねて、コンクールで1位を獲っても、何の意味もない。誰も幸せになれるはずがない」と気づきました。みんな音楽が好きで集まったはずなのに、私は「お前は下手だから辞めろ」などと心ない言葉を、日常的に話していたのです。そんなことは言語道断、私は指揮者として失格です。
そこで私は復帰の挨拶で、こう言いました。「私は1位を目指すために、君たちを苦しめてきた。音楽とは“音を楽しむ”もののはずなのに、私がやっていたのは“音が苦(おんがく=音が苦しめる)”のほうだった」と。私はメンバーに謝り、みんなを幸せにする指揮者になりたいと宣言しました。賛否両論ありましたが、彼らもそんな私の考えを理解して受け入れてくれました。その後、練習を重ねて参加した全国大会では、楽しい合唱を実践し、念願の1位に輝くことができ ました。

平和は「非対立」から生まれる。
高木さんの著作の中にも、講演会のお話の中にも、「非対立」というワードが登場します。この「非対立」についてお話しください。

指揮者としての活動に続いて、実際の仕事の現場にも復帰しました。ここでも私は「みんなの幸せを実現する」という考えを実践していきます。以前なら、部下のミスを見つけ、責めたり怒鳴ったりしていました。それを一人ひとりの気持ちや状況を、しっかりと考えながら接することを心がける。すると、逆にみんなの モチベーションが上がっていきました。
こうしたことはすべて、私が入院中に発見した「非対立」という考え方が中心に据えられています。この「非対立」が生まれた背景には、実は私の学生時代の体 験が大きく関わっています。当時はベトナム戦争の最中で、全国的に「ベトナム戦争反対」「日米安保条約反対」など、平和運動のピーク時でした。私はマハトマ・ガンジー氏を尊敬していたので、私たちのグループは「非暴力」を理念に、ヘルメットも角材も持たない平和なデモ行進を行っていました。
ある日、私たちは機動隊と対峙しました。事前に申請をして許可を取り、デモ行進とシュプレヒコールをしていました。ところが、機動隊は一斉に私たちに襲いかかってきたのです。ジュラルミンの盾と警棒で殴られ、血を流す学生たち。重軽傷者多数、死者も出ました。なぜ、平和運動で血が流れるのか、なぜ「非暴力」で死者が出るのか。その答えが分からないまま、私は平和運動を断念しました。大学を卒業して就職、競争社会の中で大切なものを見失いそうになっていた ときに、私はあの交通事故に遭ったのです。

高木さんの学生時代は、平和運動が活発であった時期でした。
そのときの「非暴力」の活動が、現在の「非対立」にどう変化していったのでしょうか?

あの時、私たちは「非暴力」だったのに、なぜ血が流れたのだろう。私は入院中に、あのときのシーンを何度も思い起こしてみました。私たちは抗議と要求=シュプレヒコールを行っていた。投石や突入などの暴力的な行為は一切行っていなかった。それなのに、なぜ平和運動で血が流れたのか。なぜ仲間が死ななければならなかったのだろう。どこかがおかしい…。
突然、私はそのすべてを理解することができました。あの時、双方は激しい怒りに包まれていたのです。その原因は、私たちの側にありました。私たちもまた機 動隊員たちを憎んでいたのです。学生たちのシュプレヒコールもデモ行進も、相対する機動隊員にとっては大きな暴力であり、決して「非暴力」ではなかったのです。
心の中にある怒りや正義感も、実は対立という名の暴力なのです。対立をやめない限り、一切の平和は実現できません。つまり、真の平和は、対立を捨てることなのです。これを私は「非対立」と定義しました。「非対立」は我慢やあきらめのような消極的なものではなく、積極的に手を差し伸べ、強力に平和を推進し、 平和を実現していくこと。「非対立」を理解し勇気ある人が、まず自分を変え、自分の周りを変え、世界を変えていくのです。この「非対立」は、私の考えの支 柱になっています。

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