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出会い・感動インタビュー

ディズニーランドを超える花と緑のテーマパークを実現したい!-石原 和幸さん

今回のインタビューのお客さまは、石原和幸デザイン研究所の代表取締役、庭園デザイナーの石原和幸さんです。22歳で生け花本流『池坊』に入門。以来、花と緑に魅了され路上販売から店舗、そして庭造りをスタート。その後、苔を使った庭で独自の世界観が国際ガーニングショーの最高峰である「英国チェルシーフラワーショー」で高く評価され、2006年から異部門で史上初の3年連続金メダルを受賞。さらに2012年、2013年とアーティザンガーデン部門で金メダルを受賞。さらに部門内1位に贈られるベストガーデン賞と併せてのW受賞を果たされた石原さんにさまざまなお話を伺いました。

石原 和幸さん/石原和幸デザイン研究所の代表取締役 庭園デザイナー

1958年長崎県生まれ(55歳)。株式会社石原和幸デザイン研究所代表。2011年、日本の玄関口の羽田空港第一ターミナルに、英国チェルシーフラワーショー展作品“花の楽園”を再現。また2013年には、東京の恵比寿ガーデンプレイスのウェスティンホテル東京でも独自の庭園づくりで美しさをアピールするなど、全国で庭と壁面緑化事業を独自に展開し、環境保護(=美化)に貢献すべく活躍中。

石原 和幸さん

 

脳裏に焼きついているのは故郷の原風景―まず、石原さんがガーデニングの世界に入られたきっかけを教えてください。

私は長崎の出身で、両親が原爆で被爆しました。広島もそうですが、被爆時に家にいると普通は爆風で飛ばされてしまうはずなんですが、私たちの村は山で囲ま れており、お陰様で護られました。家族や親戚にもたくさんの身内がおり、当時はみんなが「食べていく」ことを優先しないと生きていけない時代でした。そんな中で、私の家でも、近くの畑を借りて農業を始めることになったんです。私自身は原爆投下から約13年後に生まれたのですが、物心ついた10歳くらいのときののどかな田園風景が、強烈に自分自身の胸に焼きついてるんですね。5月くらいになると、棚田一面にホタルが寄ってきて、空が明るくなるくらいに辺り一帯が輝くんです。それはそれは見事で、それこそ、わたし自身が自然に対して憧れを抱いた原風景です。親父はその後酪農に転向したのですが、何年か経って都市化の波が私たちの村にも押し寄せ、その内酪農ができなくなってしまった。それで今度は、花を育てるようになったんです。その姿を見て、「ああ、自分が大 学を出て花の道に入ったら、あの親父を手伝える。」そう思ったんです。

―22歳で「池ノ坊」に入門。当時は男性は生け花というのは珍しかったのでは?

山崎 大地さん

ハハハ・・そうなんです。最初はさんざんみんなから言われましたね。「おかしいんじゃない?」「大丈夫?」と。しかし、自分は、本当に生け花を「カッコイ イ」と感じたんです。たった3本の花で瞬間的にひとつの「風景」を創り出す、この世界は魔法のようだと。生け花こそ男がする仕事だとも思いました。ですか ら、この道30年になる今、幼い頃のあの美しい花のある景色を具現化できる生け花の世界は絶対他にない素晴しい世界だと、今も誇りに思っています。花の道に進んでからは、まるで狂ったように、今まで1秒たりとも花のことを忘れる時がありません。「石原さん上手ですね。」と、最初は先生に褒められることがす ごく嬉しくて、励みになって。そしたら次にはもっといい作品を作って、先生を喜ばせたいって・・・。単純だから、褒められると、もっともっと驚かせたい、喜ばせたい。そして、他の人にもどうしたら喜んでもらえるか、感動させられるか。今もずっとそうですが、そういう心の善循環が働き出すと、もう止まなくなるわけです。

人が感動する姿を強くイメージ―24歳で念願の独立、当時の印象的なエピソードを教えてください。

独立といっても、最初は路上販売から花1本での独立ですよ。だから、この1本の花が売れなかったら、今日のご飯は食べ(ら)れない。そんな毎日の繰り返し です。来る日も来る日も、そんな時期を経てようやく小さな1軒のお店を持ったある日の夕方、ひとりの男性から店に電話がかかってきたんです。「実は今日、 自分の彼女の誕生日なのだけど、仕事でどうしても動けなくて。それで、3000円分の花束を何とか届けてもらえないだろうか。」という相談の電話でした。 当時は高速道路や輸送のインフラも整っておらず、でも、あまりにも切実な声に「よし、何とか届けてあげたい!」そう思ったんです。ちょうどその日、ピンク ダイヤモンドという可愛い綺麗なバラを入荷しており、「これにしよう!」と店を閉めて、長崎から福岡まで3時間、車を飛ばして届けに行ったんですね。それ で、彼女の家について手渡した瞬間、その彼女がいきなりわーっと感動して泣いたんですね。その姿を見て自分も思わず泣いてしまい、こんなに人に喜んでもら うことができる。それはもう、3000円とかいうお金の問題ではなくて、こんな素晴しい仕事につけて俺はなんて幸せなんだって・・・。そういうエピソードは山ほどあります。

―お金では買えない「感動のドラマ」を、具体的にどのように事業化してこられたのでしょうか。

山崎 大地さん

自分はいわゆる“営業”が昔から苦手なタイプなのですが、例えばホテルとか、どこに行っても目に映るものすべてを「花や緑」に置き換えるので、行く先々 で、「ここに花や緑があったらもっと素敵なのに」とか、「もっとみんなが快適に過せるのに」とか、勝手に妄想するんですよ。例えば長崎のグラバー邸でも、 下にあるホテルの窓辺を見ていて、「この窓辺が一斉に紫陽花だったらどんなに綺麗だろう」とか、すぐさまイメージしてしまうんですね。そして、すぐ提案し てしまうのですが、提案するときはもう、すでに契約することが自分の中では前提になっているんです

また、例えばこのレストラン(渋谷のアンジェパティオ)などもそうです。以前、ここの前を通ったときに、「あ・・、このお店の窓越しに、ガーデンテラス があったらきっと素敵だ」と、その前にもうガーデンテラスを勝手にイメージして、お客様が喜んでいる姿まで想像しているんです。それで、お店のスタッフに 「社長に会わせてほしい」と即、行動。違う機会にたまたま社長にお逢いし、その話をすると早速意気投合。今ではこのレストランの地下にうちのショップまで 置かせていただいています。こんな感じで、実現させたいことは、自分の中で強くイメージさえすれば勝手に必ず実現するものだと思っているんです。

日本一ではなく“世界一”を目指す!―5回の金賞を受賞された“チェルシーフラワーショー”について聞かせていただけますか。

チェルシーフラワーショーというのは、日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが、イギリス王立園芸協会(RHS)が主催し、毎年5月に開催されるガー デニングショーで、これはエリザベス女王が主宰者です。今年、開催100周年を迎え、アメリカ、カナダ、オーストラリアを始め、数十カ国から参加する壮大 なガーデニングショーです。
私は2003年以来、毎年プライベートスポンサーを募集して参加しているのですが、これには世界中から約20万人の人が4日間集まります。入場料は1万 円、それと、「ガラパーティー」というパーティがあって、モルガンスタンレーなど世界的企業がスポンサーとなり、世界中のトップスターやセレブたちを招い て、シャンパン片手に優雅に“お庭”の前で遊ぶ会があります。わずか3~4時間なのですが、参加費用が約7万円にもかかわらず、チケットは10ヶ月前から 完売。これは世界中で一番お金が動くパーティだといわれています。私も2003年に初めて参加したんですが、それはもうその場に居合わすだけで圧倒される空気があります。
“お庭”自体の大きさは約10m×20m、小さなディズニーのような庭園造りに、各国の代表的なガーデナー達が優勝を競い合うわけです。自分は今まで小 さな緑地や庭しか扱ったことがなかったので、この光景を見たときに、「これだ!」と。「日本一とか中途半端なことをいうのでなくて、どうせなら、世界の中で勝負する。よし!自分はここで絶対ゴールドメダルを取る!」そう決めたんです。それで九州に帰ると友達とかが、「石原、なんかイギリスとか行って、ガーデン大会とか目指すらしいな・・」「うん、出るよ」などと、有限実行というか、人に宣言してしまうことでどんどんその気になって、とうとう出るようになったんですね。しかし、そう簡単に言っても大きな庭だと2億円、小さくても4000万円の制作費が掛かる。それをわずか1週間で壊してしまうのですが、それでも、このような世界一を目指す庭づくりの旅に、人生を賭けてみようと決めたわけです。

―そのイメージ通りに世界一の栄光を手にされた石原さんですが、
世界一を極めた戦略的なポイントはズバリ何だったのでしょうか?

まず、自分がこのイベントに参加するときには、「苔(moss)」をテーマに出展しようと決めたんです。イギリス人は芝を大事にする国で、芝の中に苔が生えるとペストへの影響などもあり、「苔」が大嫌いなんです。けれど私は、金メダルを取るためにはそのイギリス人が嫌いな苔で、庭園も、家も、ドアも、テーブルも全部、苔でつくってやる。と、それは一か八かの大きな賭けだったんですが、お陰様で、結果、幸運の女神が微笑むことになり、英国の雑誌の“タイム ス”で取材され、「Moss Man(苔男)」と呼ばれて、それ以来、向うのマスコミからも絶賛され、苔の庭園を作るようになったんですね。2007年からです。
そして今年で5回の金賞、銀賞は3回受賞し、今年2013年は100周年祭だったのですが、その100周年の歴史を記念したパビリオンでは、ビートルズ のリンゴ・スターの写真があり、続いてエリザベス王室や世界各国のトップの人の写真がズラーっと並ぶ中、なんと僕の写真が一番大きく展示されてたんです。それを見た時には本当に涙が溢れました。「ようやく英国が自分を認めた!」あの時の感動は生涯忘れません。表彰式の際には「チェルシーに石原さんがいないのはもう考えられないね」などと司会者から言われ、自分は絶対毎年出る。またそこで決意を固めることになりました。死ぬときには自分の遺体を灰にして、 チェルシーに撒こうなどと勝手に考えています。

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